【前半】北極星が照らす聖地〜少林山達磨寺と高崎のだるまの歴史〜

少林山達磨寺の本堂(霊符堂) 

縁起だるま発祥の地として、上毛かるたにもうたわれる少林山達磨寺。絵札には左目だけが入った「縁起だるま」と、上部には星座が描かれています。 

なぜ絵札に星座が描かれているのか、皆さんはご存知でしょうか? 

群馬県民にはお馴染みの絵札の謎や少林山達磨寺のルーツを「七転び八起き」にちなんで、8項目に分けて副住職にお伺いしてきました。 

今回は、少林山達磨寺と高崎の縁起だるまの歴史を探る前半3項目です。 

❶少林山達磨寺の歴史と背景 

−少林山達磨寺の成り立ちや歴史などについて教えてください。 

少林山達磨寺は、黄檗宗の寺院です。もともとはお寺ではなく、茅葺屋根の下に十一面観音菩薩を祀った、今も残る観音堂のみが建つ場所でした。 

開創当時から残る観音堂 

正確な記録は残っていないものの、この観音堂は室町時代には存在していたと言われています。 

厄除け、縁結び、安産、子授けなどのご利益があるということで、鼻高の住民の信仰の対象になっていたようです。 

※鼻高:少林山達磨寺がある土地周辺の名称 

そんな鼻高の地がだるまと縁を持つようになったのは、一了居士(いちりょうこじ)という行者(ぎょうじゃ)が達磨大師よりお告げを受けたことがきっかけでした。 

※行者:旅をしながら仏教の修行を行う僧侶のこと 

1680年頃のあるとき、大雨によって碓氷川が氾濫した際、村人は川の中に大きな木の塊を見つけます。その木は紫の霧がかかっているうえに、なんとも言えない良い香りがしたそうです。 

そこで村人はその木の塊を観音堂に納め、大切に保管することにしました。 

一了居士の夢枕に達磨大師が立ったのも、ちょうど同じ頃でした。夢の中で「鼻高の地にある木で私の像を彫りなさい」とのお告げを受けた一了居士は、沐浴斎戒(もくよくさいかい)を行い、一刀三礼(いっとうさんれい)という最高の彫り方で達磨大師の像を彫り上げます。 

※沐浴斎戒:身を清めて、肉・魚・酒や臭いのきつい野菜などを絶つこと 

※一刀三礼:一彫りごとに3回、五体投地(ごたいとうち)という全身を使った礼拝をすること 

1年以上の月日をかけて彫り上げられた達磨大師像はとても素晴らしく、村人たちは「鼻高の地に達磨大師が現れた」と言って喜んだそうです。 

こうしてこの地は、かつて達磨大師が坐禅をして修行した中国にあるお寺、嵩山(すうざん)少林寺にちなみ、少林山と呼ばれるようになりました。 

観音堂だけがあったこの場所がお寺になったのですね。 

いえ、実はそう簡単ではありませんでした。当時は、江戸幕府によって新しくお寺を作ることが禁じられていたからです。 

檀家制度ができて、お寺が今の役所のようなかたちで檀家を登録して管理していたんです。 

なので、お寺がどんどんできてしまっては管理が大変と、新しいお寺を作ることを禁じていました。 

そこで、新たに作るのではなく、近くにあったお寺を移築するという形をとって「少林山鳳台院達磨寺」としたのです。 

本尊は北辰鎮宅霊符尊という、北極星信仰の方位除けの本尊さまです。 

※方位除け:北極星信仰の考え方で、人にはそれぞれ生まれ年によって星が決まり、星の動きによって吉方位、凶方位がある。その凶方位を除ける祈願 

上毛かるたの絵札に北斗七星が描かれているのは、このご本尊さまが理由です。 

また、この少林山の地が正式な寺院となることができたのは、当時のお殿さまの後押しもありました。当時前橋の飛地だったこの場所は、前橋城から見ると裏鬼門にあたり、寺院の建設が望まれていたのです。 

※裏鬼門:鬼門の反対側となる南西の方角のことで、複数ある鬼の通り道の中でも最後に鬼が出ていく不吉な方角とされる 

こうして正式な寺院となった当山ですが、江戸時代の間は水戸の祇園寺から和尚が派遣される形で始まり、今日まで320年以上続いています。 

❷高崎のだるまの誕生と少林山との関係 

−少林山達磨寺と高崎のだるまとの関わりについても教えてください。 

本堂の賽銭箱には「丸に水の紋章」が入る 

上毛かるたで「縁起だるま」と詠まれる高崎のだるまは、9代目の住職・東嶽(とうがく)和尚のときに生まれました。時代は江戸時代中期で、天明の大飢饉が起きた直後のことです。 

その頃、築200年以上となった観音堂の建て替えの話が出ていましたが、飢饉の影響が大きく、建て替えのための寄付が十分に集まりません。 

そこで東嶽和尚は、いろいろな場所に出向いて自ら寄付を募っていました。そんな彼が江戸で出会ったのが、赤色が疱瘡(ほうそう)を防いでくれると信じられ流行していた「江戸だるま」です。 

江戸だるまが広く販売されている様子を目にし、東嶽和尚はここに少林山と地域の課題を解決するヒントがあるのではと考えました。 

少林山の地はからっ風や冬の乾燥で、冬は農業での収益が期待できない地域でした。そこで、この地でもだるまを作って売れば、農業に変わる生計を立てる手段になるかもしれない、そう考えたのです。 

何と言っても、少林山は達磨大師がいるお寺です。ここでだるまを作らない選択肢はないだろうということで、東嶽和尚自ら木型を彫り、張子のだるまの作り方を地域の人に教えます。 

これが高崎の縁起だるまの始まりです。 

とはいえ、単にだるまを作っただけでは生活できません。そこで、毎年1月6日・7日の少林山七草大祭でだるまを販売するようになりました。 

少林山七草大祭とは、1月7日の午前2時に合わせて祈祷するお祭りです。 

なぜ午前2時なのかと言うと、北辰鎮宅霊符尊という北極星を神格化した本尊さまだからです。星が最も輝く午前2時は、本尊さまが降臨するご利益のある時間だと言われています。 

名前も「少林山七草大祭だるま市」に変更し、今では毎年多くの参拝者が訪れる、220年以上続く伝統行事となりました。 

−高崎の縁起だるまと他の地域のだるまは、どのようなところに違いがあるのでしょうか? 

この少林山達磨寺とともに、信仰に密着する形で発展していったことが大きな違いです。全国には他にもだるまが有名な地域はありますが、多くのだるまは「置物」として捉えられている部分が大きいように感じます。 

絵付け体験の会場にてお話を伺う 

ところが、この高崎市を中心とした群馬県の多くの地域では、だるまに目を入れるという文化が自然に受け入れられていると思います。 

新年にだるまの目を入れて願いを込め、その願いを達成した際もしくは1年間の感謝の思いを込めて、もう片方の目を入れる。また、役目を終えただるまは、お寺に戻していただき、お焚き上げ供養をさせていただいてます。 

これは他の地域では一般的なことではありません。 

また、見た目にも違いがあります。例えば群馬県と隣接する福島県の白河だるまは、高崎のだるまと比べれば少し縦長というか、楕円型の形をしています。 

ただ、高崎のだるまも、最初から今のような丸みを帯びた形だったわけではありません。今の形に落ち着いたのは、江戸時代の終わり頃だったと言われています。 

「縁起だるま」という言葉が定着したのも同じ頃です。 

だるまの顔は眉毛が鶴、髭が亀と、お顔の中にそれぞれ2匹ずつ「長寿」や「縁起」を表す生き物が描かれていることを理由に、「縁起」だるまと呼ばれるようになりました。 

−高崎のだるまが丸みを帯びた形になったのには、何か理由があるのでしょうか? 

特別な理由があるわけではなく、時代を経て少しずつ変化してきたようです。 

だるまはもともとは達磨大師が坐禅を組んで修行した姿を表したものなので、足に当たる部分があぐらを組んだ形に膨らんでいたり、頭巾を被った頭の部分が卵の先のように上に伸びているように見えたりするのが最初の形でした。 

そう考えると、白河だるまは初期の高崎のだるまの形に近いのかもしれませんね。 

当山には全国のだるまを展示しているスペースがあるので、ぜひその違いを感じてみていただきたいです。 

だるまを含めた伝統工芸は、高齢化や後継者不足が叫ばれていると思います。高崎のだるまに関してはそのような心配はないのですか? 

当山はだるま作りに携わっているわけではないので何とも言えないですね。ただ、そのような課題があっても、当山にも協力できることがあるかもしれません。 

例えばこれからだるま職人を志す方がいて、当山でだるまを販売したいのであれば、お断りする理由は何もありません。 

昔からお寺は開かれた場所なので、「この人とお付き合いしてはいけない」というような決まりごとはないんですよね。 

当山がどなたかの活躍の場になるなら、それもこの地域に長く根付いてきた当山が目指す1つの形なのではないでしょうか。 

❸黄檗宗(おうばくしゅう)とは? 

−少林山達磨寺の、黄檗宗という宗派について教えてください。 

黄檗宗は禅宗といって、坐禅をする宗派の1つです。隠元禅師という、渡来僧が日本にもたらしました。 

一般的な寺院というのは、先祖を供養するという考え方が強いのに対し、黄檗宗の寺院である当山では、今生きている自分自身や周りの人を尊重するという考え方をします。 

早朝坐禅会や結婚式が行われる瑞雲閣(ずいうんかく) 

−そんな黄檗宗では、どのような修行をするのでしょうか? 

「自分の中にある仏様を見出していく」という表現が近いと思います。「仏様を見出していく」とは、つまり一人ひとりが尊い存在であるということでもあります。 

「自分だけが大切」「自分だけが偉い」ではなくて、お互いをしっかり認め合っていく考え方です。 

修行というと滝に打たれる様子などをイメージする方もいるかもしれませんが、あのような目で見て分かりやすいものだけが修行ではありません。 

修行というのは、日々精進です。日常のあらゆる場面が修行であり、その中で自分と向き合います。 

言葉では表せないところに教えがあり、到達点もありません。どうしたら悟りを開けるかを模索し続けるのが修行ということになります。 

道場の役割を持つ大講堂 

つまり、修行に終わりがないということですね。悟りを開く方法が分かっていたら、お釈迦様になれてしまうわけなので。 

ですから、例えば早朝の坐禅に参加してみるとか、まず自分でやってみることが大切です。 

−そのような考え方は、高崎の縁起だるまにも影響を与えているのでしょうか? 

自分と向き合って日々修行するというのは、「願掛けだるま」の考え方にも深く関係しています。 

「願掛け」とは言いますが、だるまに目を入れれば全部叶えてくれるというものではありません。願いを掛けながらだるまに魂を吹き込むのは、一種の決意表明のようなものです。 

自分で願いをこめて目を入れることで、自分が望む目標のために自分自身が頑張っていくんだと決意できます。 

そしてだるまさんに日々見守ってもらうことで自分の決意や願いを確認し、「自分で望んだことなのだから、最後まで頑張ろう」と思えます。つまり、だるまさんに背中を押してもらっているようなものです。 

だるまさんを通して、いつも自分自身と向き合い、悟りを開くための修行をしていることになります。 

〈取材後記〉 

幼い頃から親しんでいた上毛かるたでよく知っていたはずの少林山達磨寺でしたが、あらためてお話をお伺いすると、いかに自分の知識が浅かったかに気づかされます。 

特に、先祖のためだけではなく、「今生きている人のためのお寺」だったというお話は印象的でした。 

取材後半では、副住職が思い描く、今後の展望を中心にお伺いしています。 

こちらもぜひご覧ください。 

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