【前半】日本の製糸業を守り抜くー碓氷製糸・土屋常務の挑戦ー

妙義山麓の安中市松井田に佇(たたず)む碓氷製糸は、全国の約70%もの繭を使う、日本最大の製糸工場です。

海外の安価な生糸に押され、国内生糸生産量がピーク時の0.02%未満まで落ち込む中、65年間変わらず工場を稼働しています。

今回は日本蚕糸業の最後の砦(とりで)とも言える碓氷製糸の現状と、富岡製糸場世界遺産登録10年の節目に描く、日本蚕糸業の未来を常務取締役である土屋さんに伺いました。

群馬県庁を退職して2年、群馬の繭と生糸に第二の人生をかける土屋さんの挑戦を、2回にわたってお届けします。

日本蚕糸業最後の砦

土屋さん:

碓氷製糸は、昭和34年(1959年)に碓氷製糸農業協同組合として発足しました。

それは前年の昭和33年(1958年)のこと。ニューヨークの生糸相場が大暴落して繭が売れなくなり、全国の製糸工場が次々に閉鎖。当然群馬県内でも、繭が売れなくなりました。

このピンチに碓氷・安中地域の多くの養蚕農家が集まり、自分たちの手で繭から生糸を作って販売まで行おうと、一致団結して誕生したのが碓氷製糸農業協同組合です。

養蚕農家の減少と高齢化から平成29年(2017年)に株式会社化をしましたが、変わらず純国産の生糸を生産し、桐生市をはじめ全国の絹織物産地、染色作家などに供給しています。また、生産するシルクを利用したタオルや石鹸・化粧水など、オリジナルシルク製品の販売も行っています。

全国で製糸場が次々と閉鎖される中、器械製糸工場は山形にある松岡株式会社と碓氷製糸の2カ所を残すのみ。しかも、現在年間を通じて稼働しているのは碓氷製糸のみとなってしまいました。

日本の製糸工場の絶滅が危ぶまれる中、現在は碓氷・安中を含む群馬県内はもとより、全国の養蚕農家が生産する繭の約70%を購入し、養蚕業を守る砦となっています。

ただ、私が群馬県庁を退職し常務に就任して2年目の今年、経営としては依然赤字の状況です。

生産量が落ち、海外の安い生糸に押されて生糸価格が上げられない中では、これまでと同じことをしていても回復は望めません。そこで、3本目・4本目の収入の柱になるものをと、新しい取り組みを模索しているのが現在の段階です。

ー業界全体として見ると、養蚕・製糸業はどのような状態なのでしょうか?

土屋さん:

碓氷製糸を取り巻く業界全体の状態は、ピーク時から今まで、厳しさを増すばかりです。

例えば全国の養蚕農家件数は、ピーク時の221万戸から、令和4年時点で163戸にまで減少しています。これはかつて養蚕製糸の一大産地として知られた群馬県でも同様で、戦後ピーク時の8万4,000戸に対し、わずか62戸となっています。

群馬県戦後ピーク時(昭和33年)84,470
令和4年62
全国ピーク時(昭和4年)2,210,000
令和4年163

単位:戸

国内生糸生産量についても同じことです。

群馬県戦後ピーク時(昭和34年)52,681
令和4年118
全国ピーク時(昭和9年)750,000
令和4年168

単位:俵(60kg)

ーそのような厳しい状況の中で、何が土屋さんを突き動かす原動力となっているのでしょうか?

土屋さん:

日本の繭と生糸は実用的な面だけでなく、歴史的にも価値があることを忘れてはならないと思うんです。

明治時代、欧米の列強と肩を並べる近代国家への道を模索した日本は、貿易赤字解消のための外貨獲得の手段として「殖産興業政策」を打ち出します。

殖産興業とは、機械制工業や資本主義の育成によって国家の近代化を目指した施策の1つで、その一環として明治5年に官営模範工場の富岡製糸場も運用が始まりました。

生糸の輸出は1865年の開始時点でも輸出額の79.4%を占めるなど、日本の外貨獲得を支えていた面はありました。それが、富岡製糸場によって製糸技術が全国に普及したことで生産量・輸出額とも増加し、明治42年(1909年)に清(中国)を抜いて世界一の生糸輸出国となり第二次世界大戦が始まるまでその地位を維持しました。

その間、昭和7年(1932年)には輸出額のピークを、昭和9年(1934年)には生産量のピークを迎えます。

日本はこの経済効果で外貨を獲得し、機械工業や軍備をさらに充実させました。つまり、日本が資本主義国家・近代国家の仲間入りを果たせたのは、養蚕・製糸業あってのことだったのです。

技術革新で我が国の近代化を主導した製糸業、世界との交流をしながら日本の転換期を支え続けた生糸。その証として、「富岡製糸場と絹産業遺産群」は平成26年(2014年)に世界遺産に登録されました。この誇るべき颯爽たる上州の歴史を、群馬県民として語り継ぐべきではないでしょうか。

今の群馬県内に目を向けても、当時の生糸の存在の大きさを感じさせられるものが数多く残っています。

例えば、JR高崎線の存在です。実は高崎線が存在するのも、養蚕業・製糸業が盛んな群馬県から、貿易港である横浜港に生糸を輸送する手段が必要とされていたからでした。

また、群馬銀行が横浜市内に支店を構えていること、横浜銀行が前橋・高崎・桐生と、群馬県内に3店舗も支店を置いていることも、群馬県と横浜とのつながりを表していると言えるでしょう。

私は、誇るべき世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」とともに、今も生きる我が国の養蚕業・製糸業をなんとか残したいと考えているのです。

ヒントとなるのは技術革新の歴史

ー業界として厳しさが増す状況の中、どのように活路を見出していくのでしょうか。

土屋さん:

製糸業が辿ってきた、技術革新の歴史にヒントがあるのではないかと考えています。

たとえば、富岡製糸場ができた当初はフランスから輸入した繰糸機も、生糸の生産量が爆増した明治時代から大正14年頃には、御法川式の多条繰糸機に入れ替わっています。

御法川式の多条繰糸機の特徴は、蚕が繭を作るスピードで生糸を繰る回転数を理想に回転数を大幅に低下させる一方で、1台あたりの2倍にすることで繰糸量の減少をカバーしたのです。

これにより生糸の品質に関しては繊度のムラが多くイタリアや中国に遅れを取っていた日本が、品質の面でも優位性を得て、生糸輸出世界一への原動力となりました。

また、明治39年(1906年)に外山亀太郎が提唱した「雑種強勢」の技術は、今は当たり前となったメンデルの法則を応用した育種の「F1」です。繭を大きくすることで繭糸が長くなり、日本生糸の品質を飛躍的に向上させ、国内の繭生産の大幅な拡大に貢献しました。

その後、第二次世界大戦で落ち込んだ生糸の生産量の持ち直しを支えたのが、新たな自動繰糸機の開発でした。当時の日本の産官学の製糸技術者を総動員していくつかの機械が開発されましたが、最も高性能であったのが「ニッサンHR型」の自動繰糸機です。これ以前に広く普及していた多条繰糸機の約10倍の生産性で、生産される生糸の品質も飛躍的に向上しました。

しかも、改良が重ねられ昭和51年(1976年)に完成形となったHR型自動繰糸機は、かつて日本に製糸技術をもたらしたフランスをはじめ、アジア諸国やブラジルなどの世界中に輸出されることとなります。

このように振り返って見ても、日本の「技術革新」がそのときどきの課題を解決し、それを実現した「先人たちの気概と英知」と努力の集積が、今日の日本を作り上げたと言えます。

そんな日本の先人たちの「気概と英知」に思いを馳せると、崖っぷちにある今の養蚕・製糸業であっても起死回生の可能性があると思えてなりません。

転換点となった富岡製糸場の世界遺産登録

また、富岡製糸場の世界遺産登録により新たな希望も見え始めました。平成26年(2014年)4月の富岡製糸場の世界遺産登録により、群馬県内では新たに20戸以上の養蚕農家が誕生しています。

その中には、県外から移住してきてくれている若い世代も複数います。

平成29年(2017年)には、大手総合人材サービス「パーソル」の特例子会社で、障がい者雇用事業を

手がける「パーソルダイバース」が、富岡市内で桑園管理から蚕の飼育などを行う養蚕事業を開始しました。昨年2023年には、252kgもの繭の出荷を実現しています。

このように世界遺産登録をきっかけに、近代日本を作った繭と生糸が、再び注目を集め始めました。群馬県ではこの機を逃すまいと、「蚕糸業継承対策」による繭代確保、後継者育成のための「養蚕学校」などの複数のプロジェクトを同時に進めており、成果も出ている状況です。

長きにわたる低迷期から脱出する小さな糸口が見え始めた群馬県の養蚕・製糸業。土屋さんの描く、今後の業界、そして碓氷製糸のあり方はどのようなものなのでしょうか。

次回は、群馬の「シルク」に再び注目が集まる中で土屋さんが考える「生存戦略」について伺います。

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